五番目のサリー(絵が無いと寂しいので...あしからず)
2004年12月23日
私は、ビリーミリガンのシリーズよりも「物語」であると言う観点からコッチの方が好きです。
もっとも、「私」は、多重人格と言う在り様に対しては、批判的な立場でいます。自分の中に複数の人格(?)があり、それぞれに力関係を持ち、必ずしもそれぞれの言動を各人格が知覚し得ない場合もあるっていう所までは、共感できなくも無いんですが、とある人格が発生させた事象に関しては、他の人格には責任が無いと言わんばかりの主張が気に入らないのです。
自分自身も直面するシチュエーションによって、視点や対応を変化させるために幾つかの「私」の視点を作り出して、シミュレーションをしディベートを組みながら状況に対応すべく足掻いてます(^_^;)ただ、残念な事には、いくら仮想の「私」を増やしてみたとしても、結局の所、「私」は、私の想定範囲内のバリエーションでしかなく結論にもたいした違いが出てこないのが難なんですけどもね(つまるところ、私の場合は、いくら「私」を増やしてみても、最終的な対応が劇的に変化するほどには、個性的でないってことなんでしょう...笑)
サリーの物語は(かなり昔に読んだのでうろ覚えですが)サリー自身の感じる違和感から、謎解き→多重自覚の発現状況の確認→人格の統合によるハッピーエンド(?)で終了し、物語であるが故のカタルシスを感じさせてくれますが、もともとはビリーミリガンの事件(あれ、これって一応はノンフィクションでしたよね...私の認識間違いでない事を祈ります。)の方は、ある人格の起こした犯罪行為は、所謂多重人格と言う病気(?)の所為で、ビリーミリガンという他者から見た場合の一個人には無いのではないかと言う仮説が気に入らないのです。
だって、複数の人格の集合体であったとしても、それを生み出した(ないし分裂させた)ベースになる人格と言うものは、必ず存在するわけで、その部分を無視して犯罪ではなく症状であると言う姿勢に「私」は、納得がいかないのです。
私は「私」達の言動の責任は、私にあると言う立場で考え、行動してきました。(まぁ、そのおかげで私には、「私」達の処理能力のキャパを超える仕事量を与えられた時に、片端から問題を先送りにし、結局、自壊してしまったと言う情けない状況にはまってしまったと言う経緯もありますが...おかげ様で立派な診断書を精神科医からいただく羽目となりましたが...笑)
ダニエルキイスという作家の作品は、結構、昔から気になっています。(といっても、私は、流石にリアルタイムで追いかけられた年齢ではありませんので)この作家の初期の名作に「アルジャーノンに花束を」と言う作品があります。最初は短編で、後に長編化され、翻案されて映像化も何回かされていたと思います。確か、テイストは違いますがスペクトルマンにも、この話をモチーフにした回があったと思います(笑)これも、好きな物語の一つで、人間の脳<>心についての思考実験的な文章が、不思議に柔らかい(センチメンタルな)視線で描かれていて必ずしもハッピーエンドではないのですが、読後感は爽やかでした。自我の変容(この場合は肉体も含む)映画版の「The Fry」よりかは、かなり万人受けする内容のものだった思います。
...結局、私は「変わる」ものと言うのに憧れを感じているのでしょうね、やっぱり(^_^;)
もっとも、「私」は、多重人格と言う在り様に対しては、批判的な立場でいます。自分の中に複数の人格(?)があり、それぞれに力関係を持ち、必ずしもそれぞれの言動を各人格が知覚し得ない場合もあるっていう所までは、共感できなくも無いんですが、とある人格が発生させた事象に関しては、他の人格には責任が無いと言わんばかりの主張が気に入らないのです。
自分自身も直面するシチュエーションによって、視点や対応を変化させるために幾つかの「私」の視点を作り出して、シミュレーションをしディベートを組みながら状況に対応すべく足掻いてます(^_^;)ただ、残念な事には、いくら仮想の「私」を増やしてみたとしても、結局の所、「私」は、私の想定範囲内のバリエーションでしかなく結論にもたいした違いが出てこないのが難なんですけどもね(つまるところ、私の場合は、いくら「私」を増やしてみても、最終的な対応が劇的に変化するほどには、個性的でないってことなんでしょう...笑)
サリーの物語は(かなり昔に読んだのでうろ覚えですが)サリー自身の感じる違和感から、謎解き→多重自覚の発現状況の確認→人格の統合によるハッピーエンド(?)で終了し、物語であるが故のカタルシスを感じさせてくれますが、もともとはビリーミリガンの事件(あれ、これって一応はノンフィクションでしたよね...私の認識間違いでない事を祈ります。)の方は、ある人格の起こした犯罪行為は、所謂多重人格と言う病気(?)の所為で、ビリーミリガンという他者から見た場合の一個人には無いのではないかと言う仮説が気に入らないのです。
だって、複数の人格の集合体であったとしても、それを生み出した(ないし分裂させた)ベースになる人格と言うものは、必ず存在するわけで、その部分を無視して犯罪ではなく症状であると言う姿勢に「私」は、納得がいかないのです。
私は「私」達の言動の責任は、私にあると言う立場で考え、行動してきました。(まぁ、そのおかげで私には、「私」達の処理能力のキャパを超える仕事量を与えられた時に、片端から問題を先送りにし、結局、自壊してしまったと言う情けない状況にはまってしまったと言う経緯もありますが...おかげ様で立派な診断書を精神科医からいただく羽目となりましたが...笑)
ダニエルキイスという作家の作品は、結構、昔から気になっています。(といっても、私は、流石にリアルタイムで追いかけられた年齢ではありませんので)この作家の初期の名作に「アルジャーノンに花束を」と言う作品があります。最初は短編で、後に長編化され、翻案されて映像化も何回かされていたと思います。確か、テイストは違いますがスペクトルマンにも、この話をモチーフにした回があったと思います(笑)これも、好きな物語の一つで、人間の脳<>心についての思考実験的な文章が、不思議に柔らかい(センチメンタルな)視線で描かれていて必ずしもハッピーエンドではないのですが、読後感は爽やかでした。自我の変容(この場合は肉体も含む)映画版の「The Fry」よりかは、かなり万人受けする内容のものだった思います。
...結局、私は「変わる」ものと言うのに憧れを感じているのでしょうね、やっぱり(^_^;)
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