棚卸
2005年1月29日
変われるか変われないか?
踏み出す一歩先が、見えないから躊躇して考えすぎてアトズサル。
周囲の景色は時間とともに変化して、自分だけ取り残されたような気がするが、その状況を招いたのは、結局の所、自分自身。
その場を凌ぐために、幾つもの擬似人格(対応パターン)を作り出したように思えても、それも自分自身の想念の一部をデフォルメしたものに過ぎず...外から(他人)から見たならば「記号」としての自分は、どんなに装ったとしても一つだけ。
変わりたいか変わりたくないか?
踏み出しても留まっても、それを選ぶのは自分の意思。自分に関わる人間を巻き込んでまでも何かをしたいと思える、そんな何かってものは、結局の所、自分の思い込みでしかない。
是も否もひっくるめて在る物は、コッチの都合に合わせてくれる筈も無い。
なぜなら、色んな事を抱え込んでるつもりになって立ち止まってる・駆けずり回ってる自分もその一部に過ぎないから。
つまりは、主体から離れた言葉は、誰のものでもなく受け取るもののというフィルター越しに解釈され、変容し...伝えたいと言う想いは、主体を離れた瞬間に主体とは何のかかわりも無い只の音の集まり・意味の集まりに変貌し...ソレだけの事、世界の理。
「きっかけ」なんてのも、同じ事。
自分からでも、成り行きに過ぎなくても、流れの中の泡。
大きな流れの中に飲み込まれてしまえば、小さな違いは全く意味を成さないだろう。
体の痛みや心の迷いにより、その刹那、己の存在を確認出来るような錯覚を起こしてしまうけども、そうまでして確かめたい自分の姿ってなんだ?いや、本当の自分の姿(あるとして、またパターンの一つとして固定できたとして)にどんな意味がほしいんだろう?
繰り返し繰り返される日常の方こそが、本質で所謂「普通」の群れの中でユニークな存在である事に、どれほどの価値がある??
幻想も現実も、視点しだい...混沌の中、自己と言う輪郭を保つことなく曖昧な時間を過ごせるならば、それは私にとっては幸せな状態なんだけども...無いものねだりだな(^_^;)
さて、どうしたい?どうする?? >自分
踏み出す一歩先が、見えないから躊躇して考えすぎてアトズサル。
周囲の景色は時間とともに変化して、自分だけ取り残されたような気がするが、その状況を招いたのは、結局の所、自分自身。
その場を凌ぐために、幾つもの擬似人格(対応パターン)を作り出したように思えても、それも自分自身の想念の一部をデフォルメしたものに過ぎず...外から(他人)から見たならば「記号」としての自分は、どんなに装ったとしても一つだけ。
変わりたいか変わりたくないか?
踏み出しても留まっても、それを選ぶのは自分の意思。自分に関わる人間を巻き込んでまでも何かをしたいと思える、そんな何かってものは、結局の所、自分の思い込みでしかない。
是も否もひっくるめて在る物は、コッチの都合に合わせてくれる筈も無い。
なぜなら、色んな事を抱え込んでるつもりになって立ち止まってる・駆けずり回ってる自分もその一部に過ぎないから。
つまりは、主体から離れた言葉は、誰のものでもなく受け取るもののというフィルター越しに解釈され、変容し...伝えたいと言う想いは、主体を離れた瞬間に主体とは何のかかわりも無い只の音の集まり・意味の集まりに変貌し...ソレだけの事、世界の理。
「きっかけ」なんてのも、同じ事。
自分からでも、成り行きに過ぎなくても、流れの中の泡。
大きな流れの中に飲み込まれてしまえば、小さな違いは全く意味を成さないだろう。
体の痛みや心の迷いにより、その刹那、己の存在を確認出来るような錯覚を起こしてしまうけども、そうまでして確かめたい自分の姿ってなんだ?いや、本当の自分の姿(あるとして、またパターンの一つとして固定できたとして)にどんな意味がほしいんだろう?
繰り返し繰り返される日常の方こそが、本質で所謂「普通」の群れの中でユニークな存在である事に、どれほどの価値がある??
幻想も現実も、視点しだい...混沌の中、自己と言う輪郭を保つことなく曖昧な時間を過ごせるならば、それは私にとっては幸せな状態なんだけども...無いものねだりだな(^_^;)
さて、どうしたい?どうする?? >自分
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