罰当
2005年3月23日
以前に何気ない会話の中で私が「宗教を信じられる人がうらやましい、自分は救われないものなぁ(笑)」と言ったら強烈なカウンター(私が勝手にそう思い込んでいるだけのことなのかもしれないけど...通院を始める直前の頃のお話だから)を喰らった。「あんたは傲慢だ、本当に辛い目や酷い状況に嵌められた事が無いから、そんな事を言えるんだ」 ごもっとも...
(ちなみに、その上司が遠因で現在に至るんだけどもね...単に会話を続けたくなかったと言うだけの事で、当人は覚えてすらもいないだろうけどさ...笑)
たぶん(そして今でも)私は、そういうつもり(個々人の追い込まれた窮状で必死で掴みたくなる藁の様なものは、別の視点からは如何に滑稽に見えようとも宗教しかないこともあるだろう?)ってレベルのお話をしたかった訳ではなく現行の所謂「宗教」というモノの中で語られる「教義(考え方)」に基本的に賛同できないよってお話をしていたつもりなんだけどねぇ(いかなる状況にあろうとも、結局の所、何かに頼ってすがってみても、応えがあるかどうかは相手の気分次第でしかないだろう?)
泥臭くて浅ましくて同属淘汰が大好きで「人間らしい」からこそ、別の在り様を求める気持ちは自分自身の渇望の一つでもあるのだけども、問いかけ方が悪いだけなのか(もしくはアンチョコを盗み見て楽をしようという根性が初めっから間違ってるだけなのか)未だに、誰も(たぶん)ヒトである限りにおいては回答を持てないんだろうな(お話を広げてしまえば、自分の食い扶持を他人に回したとして、同じ事が広がっていくとは限らず「待ちぼうけ」を覚えさせることになるだけの事かもしれない...まぁ、それだけヒトってのは所謂「救い」とは対極の位置にあるものでしかないんだろうね。例え、生を嫌って自分自身でケリをつけたつもりになったとしても骸は必ず、ソコに残る訳だし誰かの手間隙をかけない限り、決して「無かった事」にすらできない...本当に、始末が悪いというか効率が悪い事この上なし!!)
じゃぁ、そういうお前は何者なのかって?
はい、実に「人間らしい」者でございますよ(笑)
小ずるくて、薄ら汚くて、無駄口たたくだけで、自ら手を動かそうとする事は一切しない。
他人の不幸や失敗を自分の状況と比較して、哀れむ事で優位に立ったような気持ちになり、己よりも上位の暮らしを手に入れたものに対しては、そのための努力や生まれやら巡り合わせのよさを妬み僻み、自分の足元まで引きずり落とそうと無駄吠えを続けるばかり...ね、実に「人間らしい」でしょう、私は♪
でもね、だからこそと言うべきなのかもしれないけども。
刹那の邂逅やら偶然の産物としか言いようの無い「ヒトデナシ」にしか与えられない「綺麗」なモノに憧れるんですよ。
そうはなれないモノである事も、私自身にとってはソコは無いに等しいもの(辿り着けるはずも無いからねヒトである限りは)である事は重々承知の上、敢えて、ソレに近い気分が味わえるのならばソレで善し。
例えば気まぐれで池の底に降ろされた蜘蛛の糸を必死で登ってるときの高揚感(あくまで周囲を見ない限り有効ってのが、このお話のツボだけどね...笑)ソレが味わいたいがために私は此処に居座り続けます(キッパリ)
たぶん、此処にはソレに近い「つながり(はいな、リアルではない事は端から承知!でもリアルにする事は、できない訳ではないでしょうが♪)を感じられる。勿論、ヒトである限りにおいてはその事自体が本当なのかどうかなんて判別の仕様も無い訳で...ならば、信じたいモノを信じるで善しだし、信じたいと思っても見なかったものを他人に押し付けようとするものを拒絶するのも善し...かな??
ただ、残念な事に所謂「宗教」の括りで語られるものは「ネズミ講」以外には、私にとっての実用性を感じられないってお話ですわ(笑)
(ちなみに、その上司が遠因で現在に至るんだけどもね...単に会話を続けたくなかったと言うだけの事で、当人は覚えてすらもいないだろうけどさ...笑)
たぶん(そして今でも)私は、そういうつもり(個々人の追い込まれた窮状で必死で掴みたくなる藁の様なものは、別の視点からは如何に滑稽に見えようとも宗教しかないこともあるだろう?)ってレベルのお話をしたかった訳ではなく現行の所謂「宗教」というモノの中で語られる「教義(考え方)」に基本的に賛同できないよってお話をしていたつもりなんだけどねぇ(いかなる状況にあろうとも、結局の所、何かに頼ってすがってみても、応えがあるかどうかは相手の気分次第でしかないだろう?)
泥臭くて浅ましくて同属淘汰が大好きで「人間らしい」からこそ、別の在り様を求める気持ちは自分自身の渇望の一つでもあるのだけども、問いかけ方が悪いだけなのか(もしくはアンチョコを盗み見て楽をしようという根性が初めっから間違ってるだけなのか)未だに、誰も(たぶん)ヒトである限りにおいては回答を持てないんだろうな(お話を広げてしまえば、自分の食い扶持を他人に回したとして、同じ事が広がっていくとは限らず「待ちぼうけ」を覚えさせることになるだけの事かもしれない...まぁ、それだけヒトってのは所謂「救い」とは対極の位置にあるものでしかないんだろうね。例え、生を嫌って自分自身でケリをつけたつもりになったとしても骸は必ず、ソコに残る訳だし誰かの手間隙をかけない限り、決して「無かった事」にすらできない...本当に、始末が悪いというか効率が悪い事この上なし!!)
じゃぁ、そういうお前は何者なのかって?
はい、実に「人間らしい」者でございますよ(笑)
小ずるくて、薄ら汚くて、無駄口たたくだけで、自ら手を動かそうとする事は一切しない。
他人の不幸や失敗を自分の状況と比較して、哀れむ事で優位に立ったような気持ちになり、己よりも上位の暮らしを手に入れたものに対しては、そのための努力や生まれやら巡り合わせのよさを妬み僻み、自分の足元まで引きずり落とそうと無駄吠えを続けるばかり...ね、実に「人間らしい」でしょう、私は♪
でもね、だからこそと言うべきなのかもしれないけども。
刹那の邂逅やら偶然の産物としか言いようの無い「ヒトデナシ」にしか与えられない「綺麗」なモノに憧れるんですよ。
そうはなれないモノである事も、私自身にとってはソコは無いに等しいもの(辿り着けるはずも無いからねヒトである限りは)である事は重々承知の上、敢えて、ソレに近い気分が味わえるのならばソレで善し。
例えば気まぐれで池の底に降ろされた蜘蛛の糸を必死で登ってるときの高揚感(あくまで周囲を見ない限り有効ってのが、このお話のツボだけどね...笑)ソレが味わいたいがために私は此処に居座り続けます(キッパリ)
たぶん、此処にはソレに近い「つながり(はいな、リアルではない事は端から承知!でもリアルにする事は、できない訳ではないでしょうが♪)を感じられる。勿論、ヒトである限りにおいてはその事自体が本当なのかどうかなんて判別の仕様も無い訳で...ならば、信じたいモノを信じるで善しだし、信じたいと思っても見なかったものを他人に押し付けようとするものを拒絶するのも善し...かな??
ただ、残念な事に所謂「宗教」の括りで語られるものは「ネズミ講」以外には、私にとっての実用性を感じられないってお話ですわ(笑)
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