無知な事・愚かな事は、決して純粋とか天然といった言葉で評価されるべきではない。
同様にして、弱い事を嘆く事、理由にする事も全く無意味な事でしかない...「死」と「不幸」だけは「平等」だから。
「もしも」を夢想する事は、構わない(それが「遊び」の一種でしかないと判っているならば)が、リアルにそうでないから・他と比較しての事に過ぎないならば、これも習慣性の強い・毒性の強い「薬物」に耽溺するのと同じ...そんな者の存在などはおかまいなしに時間は過ぎ他人は忘れ・変っていくから。
生き物は、全て他の生命を殺して・食らう事でしか己の種を連ねていくしか出来ない。
全体にとっての「個」は、代替の利く「歯車」の一つでしかない(つまりは、幾らでもバイパスの用意された回路。ある方向性が未来につながらないのならば、その「個」を経由しない・その「個」の存在の意義を無視して、時間を乗り越えていく方法を選択する物だから...動きが伝わらなくなれば、その「個」に動きを伝える・周囲の・関わった「個」達も巻き添えにして、腐った・機能しない「部分」は、無かったのと同じものとなる)
もっと身近な所に視点を移してみても、原則は常に同じ「より長く・より強く・より多く」ってのは、「企業は、利潤を上げることが最大の目的」であると言う事と何も変らない。
年齢・性別・価値観・時代・場所・知識・能力・身体特性等など、全ての「個」をユニークなものとする構成要素は、初めから「平等」に配られているわけではないし、努力する・学習するという「才能」すらも誤差の範疇に過ぎない。
「混沌」もしくは「理不尽」こそが、世界の有り様の原理・原則。
拒絶される事も拒絶する事も、虐げられる事も虐げる事も、弱さを努力して強みに変えることも弱みに付け込まれる事も、同義...「欲」と「混沌」がありとあらゆる事象を統べる唯一の王則。
赦されたと感じられる事も、忘れてしまう事も、癒されたと思ってしまう事も、何もかもが自己欺瞞ないし脳内麻薬物質の過剰分泌への依存もしくは中毒症状でしかない(ほい他人の住処に土足で爆弾と毒物を撒き散らす白き「神」に祝福された国の住民が、たかだか水の流れが変っただけで、獣の群れと化す事には、何の矛盾も不自然さも感じないのが「私」だから...むしろ、あぁ、やっぱりねって事)
それが意図的でないにせよ、理不尽だとか守って貰えないとか知らなかったからってのは一切、免罪符なんてものにはならない。子供だから・女性だから・病気だから・年老いているから...どんなに「違う」と「個」が主張しても、先に居るもの・力のある者・智慧を持つものが、如何なる「理由」により「他者」を尊重しなければならないのか、また、同様の理由により決して誰かの「幸」を掠め取った訳でもないのに責められ・債務を負わされ・負い目を感じなければいけない理由も無い。
そんな事、誰にでも起こりえた話しだし、リアルにそうでないならば、それは「全く」そうでないのだから。
此方もリアルの一部だし、作ったのも使ってるのもヒトだから、リアルで起こる事象の総ても同様に存在する。だから、覚悟の無いものは近づいてはいけないし、関わらなければ良い。
(ま、そんな覚悟の一つや二つなんぞなんてのも端から自己満足に過ぎないんだけどもね...想定外のことと感じるのは、己の能力不足を恥じるための言葉でしかないから)

だから仕合わせる事は「幸せ」であり、それをして「不幸」だと感じるか否かは、此方でもリアルでも当事者たる「個」の趣味・嗜好の範疇に収まってしまうような事なんだと「私」は思う。

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kaj

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