「意味」は、観測者の脳内の虚像に過ぎない(もっとも、脳内で展開されるヴィジョンの全てにリアルとの境界線を求める事自体が無意味であるのだから...「個」の抱えた・育ってしまった「環境」次第で「是」も「否」も判別する基準なんぞ初めから存在しない...悪夢のロジック=混沌こそが「在り方」だから)
シンクロニシティは、「在った」事を、後から整理するためには役立つ概念かもしれないけれども、統計は確率の領域を逃れるための便法の一つであり、それだけのものに正否を求める・依存する事は、最初から思考停止・放棄と変らない。
戦略的反転前進とは、どこまで行っても言葉遊びの枷から自由になるための「道」ではない。

求めていると思っている結果・理想的な結果を得ようとして、足掻く事は一寸の虫けらの最後の矜持では在るものの、さてはて、その事自体に如何程の「意義」が、在ろう事やら(笑)
まぁ、こんな風な感性と言うものは結局の所、餓鬼の頃に頭を強打して、本来は左脳で処理する部分を右脳の一部で代用する事により(成長期だったからね、それに順応してしまってる私には、世界の在り様は常に言語に変換される事によってのみ記憶・認識を違和感と供に脳内に再構築する事しか出来ていないのだろう...たぶん(^_^;)

だから...憧れる事は常に夢に逃げるための便法。
欲しているか否か、実の所は足りているのか否かは問題ではなく、次から次へと「欲」を回し続ける事で「考えない」様にしていなければ、バランスは簡単に崩れる一回こっきり・練習無しの綱渡り...余計な事を考えて集中力をなくしたら、ハイ、さよううなら〜
なまじっか、楽しい事・嬉しい事・優しい事・何かに縋った記憶を持つ事は、かえって自分を弱くするのかもしれない。かく在ることが当たり前だと思い込んでしまうならば、そうでない時間を過ごすのは、余計に辛くなる事だろう。

...だからね、橋の上からチョコレートを魚に与えてはいけないんだよ!

本当の所、ヒトにとっての幸せは、善き事に仕合わせ無い事なのかもしれない。
己が比較する事・他人に評価を下される事など、そんなものは初めっから、どうでも良かった事なのかもしれない。在りもしない「普通」や「平均」を(どこに基準を置くのかも悩ましい所でもあるのだけれど)、身包みはがされて放り出され3日も砂漠を流離った挙句の一口の水の在り難を想いを馳せる事が出来るのならば、地雷の埋まった大地の中で「誰かの貪欲」を満たすために引鉄を引き、祈りと供に彼らの天国へと旅立つ気持ちを思いやる事が出来るのならば...

結局の所は、全ては何もなす事も無く、生き延びてしまっている「おやぢ」の戯言なんだけどもね(^_^;)

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kaj

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