妄惑

2005年10月27日
偶々巡りあった事柄に、意味を見つけようとするのは、自分自身の中のヒトの本能が成せる業。
理解できないもの・知らないものは、怖いから名前をつけて、分類してしまって安心する。
観方、感じ方ってのは、習慣に過ぎない...だから、変われない・換えられない?
「あなた」の言葉は、私というフィルター越しにしか届かない...そりゃそうだ、私に向かって「あなた」は、声をかけているんだから。
答えたいと思う・応えられないかも知れないと惑う...当たり前の事・普通な事...だって「あなた」はリアルな「あなた」が「あなた」自身だと考えている「あなた」ではなく、私がイメージしている「あなた」の像のヴァリエーションに過ぎないのだから(もちろん、私の捉えられ方も、多分に同じルールが適用されている筈...いや、それも私の思い違いか?思い込み??)「是非も無し」だし「奇遇でも在る」って事なんだろうなぁ、やっぱり。
私の中の「私達」という処理系を回しているという便法が、私自身の酔狂な言動を説明するのに都合が良いから戯れている言い回しの一つ(只の気休め?目晦まし??)
「あなた」にとっては、絶対に一人称では、在り得ない存在=「あなた」にとっての二人称で括られてしまう者こそがわたしにとっての「あなた」=私の一部・見せている姿である「私」の「あなた」のフィルター越しの姿の一つ。
つまり私の存在は「あなた」により規定されると同時に「あなた」の存在は、私によって規定されるイメージの集合体でしかないと言う事か?(待て待て、それすらも私ないし「あなた」の知覚パターンの一つな訳で...キリがないな、なんとなく...笑)
詐欺師のように委細了解の上で、語るべき事を意図的に語らないのか、山師のように自分自身も己の妄想・夢に取り込まれて、無自覚に周囲を巻き込んでいるのか?
「たくさん」は「いっぱい」だと思ってしまう(発音は同じでも、日本語ならば多重に意味を重ねられる...曖昧さやら混沌を語るには、すこぶる便利だな...全く)
初めから終わりまで、もしくは「あなた」と私の間に、境目は無い。
私の言葉は、誰の言葉であっても不思議な事でもなんでも無い...始まっていない事は終わらせようが無い...発せられた・聞かれた言葉そのものには時間も無ければ、異議も無い...本当か???
「理由」なんて、その程度の「お話」というのが、河原者・オッドマンの矜持でもあるのだけども...そう感じてしまう私自身を保証するなんて真似がヒトでしかない私に適う筈も無い。
それでも...私は、結局の所、私なんだろうねぇ...全くもって在り難い事だねぇ。

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kaj

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