2006年2月19日コメント (2)
型
所謂、中国拳法を取り入れた武術には「型」と言う概念が在る。
その所作だけを見る分には、優雅な舞いとしか思えないような単純でかつ緩慢な動きのようにも思えるのだが(例えば、早朝に公園で太極拳の演舞をしている老人たちの姿を思い浮かべて欲しい)この所作を独特な呼吸方法と合わせて繰り返し繰り返し覚え込ませる事により、実に実践的な戦闘力を獲得できてしまう。
通常、人間は視覚もしくは聴覚により、外界の変動を察知し、脳より相応の回避運動の指示を出し肉体の幾つかの部位を効率よく稼動させるのだが(例えば、石ころにけつまずいた時、すっ転ばない様に腕を振り回してバランスを持ち直すような事...モビルスーツに手足をつけるのは一見無駄なように思えるがスラスター噴射による燃料消費を行なうことなく重心の移動により、運動ベクトルを自在に操る事ができるのと同じ理由)初めて体験するような事態(そうだなぁ、街で引ったくりにあったり、酔っ払いに絡まれたり、「切れた」餓鬼に刃物をちらつかせられたりと言う様なありがたくない事態)においては、入力された情報を吟味・検討し適切に対応しようとしても、そこに生じるタイムラグにより、対処しきれなくなってしまいがちであろう。
如何なる状況においても、スムーズな対応を行なうには、通常人の脳のソフトウェア的な(所謂RAM上に展開されている、記憶やら人格と言ったもの)処理では間に合わない事が現実として存在し、その危機的な状況に対応するのが件の「型」というものである。
言わばバッチ処理(連続した複数の処理を時系列に実施する事)を肉体と言う出力機構にプリセットされたプログラムを焼き付けるような物(人間の脳にもヒトゲノム解析から導き出されたROM=変更不可能な部分と後天的に獲得される人格を形成しているRAM以外に書き換え可能なFrashROM的な機能を持った部位の存在が予測されている...ほら携帯電話でもファームウェアの書き換えで性能がアップする場合があるでしょう?)であり、ここに日常的な肉体の基本運動(ま標準動作を司ると言う意味ではOSに近いかな)だけでない、運動を焼き付けていく事が「型」の修練・修行と呼ばれるものであろう。
さて、問題は、ここからだ。
肉体の直接的な反応を伴わない思考・嗜好および物事の判断基準においても、同様にして「型」が「出来上がってしまう」事が在るという事。
つまり、特定の事象に対する反応が、無意識(まぁ、厳密には、全ての思考は「個体」特有の「脳」の処理能力の枠組み内で規定される物なので、うっかりとか魔がさすというのも含めて赦されない定義の一つでもあるのだが、今回は省略する)の内に決まってしまっている状態を自分自身の暗示によっても、また外的な要因(これは特殊な器具や薬品の投与だけを意味しているのではなく単なる「言葉」でも可能)によっても作り出されてしまうと言う事である。
どんな状況に直面した時にも「ポジティブ」に捉えられえないのは、善くない事だと思いこんだりとか、他人が自分には出来ないような事を軽々とやってのけているのは自身が劣っているのだと言う間違った認識などが、その典型的なものだと言えるだろう。
修行の様に自らの意思で始めたと言う実感が無いために見落とされがちだが、これらの「型」を形成するのに必要な条件は単に「繰り返される」事だけなのだ。
逆を言えば、別の「型」を繰り返す事により、従来、存在している・存在させてしまった物を上書きする事は、実は、簡単な事でしかない...反応時間の短縮化、自己改造?みたいなものは、その手法や手段は異なる物の如何にして、望みの「型」を自己の脳に焼き付けるかという事に他ならない(民間伝承も宗教も「なんたら」テラピーの類も、結局は同根の物でしかない)

蛇足ながら「私」の「型」を一つ、御披露させていただく事で、この節は終わりとさせていただこう...事例は、そうだなぁ、うん。
「グラスの割れる音」を聞いた際におけるパターンを挙げてみようかな?

・その事象は、自身に影響を及ぼす物であるか否か
・その事象の発生した要因が、自身の存在にあるのか否か
まずは、この二つが入り口となる。
この二つの要件に該当しない場合は、全てスルーするの「私」の「型」の第一段階。
その先は、こうなる。
・事象を発生させた人間は、自身の身内か否か?
否の場合は、ここで御仕舞い。
そうでなければ、
・事象を発生した行為者に肉体的な危害は及んでいないか
・事象の発生により、精神的な被害を行為者は受けていないか
・事象の発生により、行為者が実行しようとしていた行為そのものに齟齬が生じていないか
というパターンの判断が実施され、その順位付けは、「私」の中の、その行為者に対する「身内の度合い」によって、前後する。

実時間における「私」の肉体反射として表出する物は、振り返り声をかけるか否かというだけのことなんだけども、そんな些細な事においても「型」は形成されてしまっていると言う事。付け加えて言うならば「私」にとって、親密度の最も高い対象者の場合ならばかける言葉は事象の発生の有無に関わらず決まっている。

「怪我してない?あぁ、それぐらい大した事無いよ!きっと、そのグラスは本来だったら、あなたの身に降りかかる筈だった「厄」の身代わりに成ってくれたんだよ♪」

「型」そのものに対しての好みというのは個々人の判断に委ねるしかない物なのだけれども、そこに「プラス」だの「マイナス」だのと言う概念を持ち込むのは、座りが良くないなぁと思っている。全ては、思い込み・思い入れのままににと言うのが「私」の「基本型」であり、かつ「不自然」な物と自称する所以でもある...のかな?

コメント

彩
2006年2月20日15:16

kajさん
よくわかってはいないんですけど・・・
要するに笑ってたらいいかなってそこに戻って
しまいます。

笑う門には福来る だから*^-^*

仕事忙しそうですね。
無理しないでくださいね*^-^*

kaj
kaj
2006年2月20日20:45

あ、その「感覚」好きです♪
誰かの作った「型」に嵌められるのは嫌だけども、自分の動きが繰り返しているうちに気が付いたら何かの「様」になるような...うん、そんな感じです。
kaj

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