致死量

2007年5月15日
致死量
そもそも
多細胞生物なんだからオリジナルに拘った所で意味が無いんだよなぁ。
だって
自覚的な死を認識できないにしても、
確実に細胞レベルでは死に続け入れ替わり続けて
回数が尽きるまで死に切れない。
偶々発現した遺伝子の組み合わせが、
色の違い、大きさの違い、形の違いとして目に見えるだけで
その組み合わせが多少違えた所で、
毛色が違ってる程度の「お話」でしかない。
勿論、その偶然が何故、形をとったのかという事が気に成るって言う気持ちは理解できるけれども...答えは組み合わせられる数だけ用意されているし、選択権は平等に誰にも無い。
ほんの少しばかり古びて見えたとしても、多寡だかヒトの暮らしの10年単位の差。
それを格差なんて大仰な謂いをして均そうと声高に叫ぶのは自由だと思うけど、
(まぁ実践すればキリなんて無いから「幸福な王子」の末路を辿るのは明白)
それをして放ったらかしにする自由も認めて欲しいかなぁ。

長く生き延びりゃぁ偉いってもんじゃないと思うし
他の誰かの望みをかなえるのが立派だなんって思わない。
まぁ当人が、そうでなければ成らないと脅迫概念にとっ捕まってるのを見るのは、私自身にとって気持ち悪いから解呪することもあるけども、誓って言うが(...何に対してだろう...笑)それは悪魔で只の酔狂。

有限の個の個体差ってのは常に在る訳で、
その違いを積み上げた所で暇つぶしにしか成らない。
今、違うものを違うといった所で何も変わらないし、誰も変えない。
優先順位を変える事ないし切り捨てる事で、わずかなスピード感はごまかせた様に見えたとしても、それは只の目晦まし。

在る事を知っている。
より深く知っている。

...だから、どうした?

より自由な時間がある。
より多く食べる事が出来る。

...だから、何?

刹那の砕片の現在が「違う」のは、当然だろうに。
嫌が応も無い。
好き嫌いは便利だけども、それも尺度の問題でしかない。
有効なのは確実な一手、その一発で確実に仕留める技量のみ。

誰がとか誰にとか、
入れ替え可能な代物ならば、どっちだって同じだろう?

それがヒトが、未だ死んでいないという事。
陽光の下で心臓に木の杭を打ち込まれていない瞬間の一つで在るという事。

...どうして、皆、特異点に成りたがるんだろう?
凡そヒトが思いつくことの出来るものは、思うと言う躯の性能を超えることは出来ないのに。
有効でない無限なんて意味が無いから...

ま、それも善い。

同じ盆の上でならば、
真っ先に喰われるのは、どうやら私ではない様だ♪

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kaj

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