普通は、怒り出しても良いと思うんだけども。
「夢を見た記憶が無い」という現時点での自分自身にとっては(それでも躯ってのは慣れるものらしくて、此処数週間は気持ちが「落ち着いている」所為か、何本かは断片だけ、思い出せる...勿論、所謂「悪夢」のヴァリエーションなんだけども)あんがい悪い「落し方」ではないのかもしれないと。
蓋然性の問題から一個体には有効な量と時間には限りがある。
(まぁ、それをとっぱらて数世代かけて完成させてしまった巨大建造物やら宝飾品の類は、そこいら中に転がってるし、現在なおも完成時期が未定の「教会」をせっせと造り続けてるなんて言う酔狂な試みは反則だと思うからねぇ...笑)
当事者の主観においては明示できないとしても、その外側から見た場合には、必ず始りと終わりは明確にある(木の股から生まれるヒトはいないと思うし、自分自身も含めた誰かの夢の中の登場人物を延々と演じ続けさせられているという考え方よりかは遥かに健全であろう?)
まぁ、どの時点を「始め」とするかは色々とローカルルールによって曖昧な線引きが行なわれる事で、それなりに辻褄合わせを遣ってる様な気もするが、終わりだけは明確だ。
どの時点からかスタートして、ず〜っと死にかけのまま、或るタイミングをして、すっきりと終わる筈なんだけどねぇ。(最近は、リサイクルを優先させる関係上、どの状態をしてってのは微妙に線引きがぶれている様でもあるけれども、現実問題として「流れ」に反応できなくなっていれば、それは、もう終わりにしても善いと思う。)
誰が作ったモノで在ったとしても「物語」は終わる。
ヒトの範疇の代物が作った現実も、ヒトが夢想するヒトデナシのための「世界」も、其処にヒトが介在した時点で、必ず終わる。
...語り継がれる事が無くなってしまえば、物語は無効だから。
その真逆に、
私自身では実際に試してみた事は無いが(たぶんネ...なんせ烏頭なものだから覚えていないだけという可能性だけは棄てきれないので)異国の古めかしい装束をまとった妙に犬歯の長いもの達に対してでも256文字のちっぽけな経文は、結構、有効だという「お話」を別々の時に別の誰かから何度か聞かされているからねぇ。
で、一体、何処のどんなお節介が思いついたのかは知らないが「終わらせない」ためにだけ或る落し方(決着の付け方)てぇのが、件の「夢オチ」ていう代物。
...これは、実にたちが悪い(^_^;)
「こんな夢をみたw」
あまりにも単純で日常的で普遍性の高い「終わり」であって、物語を片付けてしまう便法。
(活字の発明以前も含めてロングセラーのトップを記録し続けている黙示録ですら、このギミックを取り込んでるくらいに至極、慣れ親しんだものと言うしかないのが気に入らないが...事実だ)
多少の痛みや臭いを我慢すれば(うん、それすらも観測者自身にとっての「夢」でないと、錯覚で無いと、幻痛でしかないと言い切ることはできない)主格すら違えても文脈は変わらない。
実用性からすれば、嘘すらも塗りつぶせてしまうコイツは万能。
落とし噺には、向かないし、あまりにも古典的過ぎて、面白みは微塵も感じないけれども。
そもそも途中経過の善し悪しの程度なんて、キリが有るからなぁ(限界を超えると脳の方で勝手にShutDownかけちまう)だから...どっちでもいいか。
にしても「夢の記憶」が無い状態ってのは、どういう「下げ」なんだろう?
ちなみに、
私には猫の箱詰め実験を楽しむ趣味は無い(笑)
性根は腐っているようだが躯の生理反応は、周囲の反応を見ていると思っている限りでは、生なんだそうだ♪
「夢を見た記憶が無い」という現時点での自分自身にとっては(それでも躯ってのは慣れるものらしくて、此処数週間は気持ちが「落ち着いている」所為か、何本かは断片だけ、思い出せる...勿論、所謂「悪夢」のヴァリエーションなんだけども)あんがい悪い「落し方」ではないのかもしれないと。
蓋然性の問題から一個体には有効な量と時間には限りがある。
(まぁ、それをとっぱらて数世代かけて完成させてしまった巨大建造物やら宝飾品の類は、そこいら中に転がってるし、現在なおも完成時期が未定の「教会」をせっせと造り続けてるなんて言う酔狂な試みは反則だと思うからねぇ...笑)
当事者の主観においては明示できないとしても、その外側から見た場合には、必ず始りと終わりは明確にある(木の股から生まれるヒトはいないと思うし、自分自身も含めた誰かの夢の中の登場人物を延々と演じ続けさせられているという考え方よりかは遥かに健全であろう?)
まぁ、どの時点を「始め」とするかは色々とローカルルールによって曖昧な線引きが行なわれる事で、それなりに辻褄合わせを遣ってる様な気もするが、終わりだけは明確だ。
どの時点からかスタートして、ず〜っと死にかけのまま、或るタイミングをして、すっきりと終わる筈なんだけどねぇ。(最近は、リサイクルを優先させる関係上、どの状態をしてってのは微妙に線引きがぶれている様でもあるけれども、現実問題として「流れ」に反応できなくなっていれば、それは、もう終わりにしても善いと思う。)
誰が作ったモノで在ったとしても「物語」は終わる。
ヒトの範疇の代物が作った現実も、ヒトが夢想するヒトデナシのための「世界」も、其処にヒトが介在した時点で、必ず終わる。
...語り継がれる事が無くなってしまえば、物語は無効だから。
その真逆に、
私自身では実際に試してみた事は無いが(たぶんネ...なんせ烏頭なものだから覚えていないだけという可能性だけは棄てきれないので)異国の古めかしい装束をまとった妙に犬歯の長いもの達に対してでも256文字のちっぽけな経文は、結構、有効だという「お話」を別々の時に別の誰かから何度か聞かされているからねぇ。
で、一体、何処のどんなお節介が思いついたのかは知らないが「終わらせない」ためにだけ或る落し方(決着の付け方)てぇのが、件の「夢オチ」ていう代物。
...これは、実にたちが悪い(^_^;)
「こんな夢をみたw」
あまりにも単純で日常的で普遍性の高い「終わり」であって、物語を片付けてしまう便法。
(活字の発明以前も含めてロングセラーのトップを記録し続けている黙示録ですら、このギミックを取り込んでるくらいに至極、慣れ親しんだものと言うしかないのが気に入らないが...事実だ)
多少の痛みや臭いを我慢すれば(うん、それすらも観測者自身にとっての「夢」でないと、錯覚で無いと、幻痛でしかないと言い切ることはできない)主格すら違えても文脈は変わらない。
実用性からすれば、嘘すらも塗りつぶせてしまうコイツは万能。
落とし噺には、向かないし、あまりにも古典的過ぎて、面白みは微塵も感じないけれども。
そもそも途中経過の善し悪しの程度なんて、キリが有るからなぁ(限界を超えると脳の方で勝手にShutDownかけちまう)だから...どっちでもいいか。
にしても「夢の記憶」が無い状態ってのは、どういう「下げ」なんだろう?
ちなみに、
私には猫の箱詰め実験を楽しむ趣味は無い(笑)
性根は腐っているようだが躯の生理反応は、周囲の反応を見ていると思っている限りでは、生なんだそうだ♪
コメント
相当近くで撮ってますね。
顔が美しい!!
はい、カメラの影を落さないようにするのが、なかなか(^_^;)
被写体の方は、完璧に寝呆けてます(笑)