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2008年1月7日
愛
色々と考え直してみたけども結局「私」にとっては自己犠牲に行き着くようだ。
たぶん自分自身以外の誰かの為に何かをするという行為でしか表現できない。
それは、
ちっぽけな気持の切り替えの様に形が見えない事もあろうし、
一椀の暖かな粥として誰の目にも明らかな形をとる事もあるだろう。
対価が(それ相応の物であるか否かは別として)明確に(行為が発生した瞬間には)理解できないとしても、結果的に自己満足は最低限、手に入れられるという事なんだろう。
もっとも、何がどうなれば満ち足りた気持に成るかってのは時代やら周囲の状況やらで、全く同じ行為であったとしても、意味合いは変貌する。
更に、
その行為を誘導する事は、それほど難しい代物ではないのだろう。
現実問題として
...自爆テロが無くならないのは、他に選択肢が無い所まで追い詰められたが故だろう。
私の側から見れば巻き添えにされた被害者は、老若男女善悪を問わず
加害者側からすれば、むしろ自身の目的を果たす道具の一つであり、逆に運命を共にする事で福音を与えた行為となるのだろう。
理不尽だと
思い当たる節がないと
巻き込まれただけの無辜の市民だと言い切ることは出来ない。
単に知らなかっただけの「お話」でしかなく、
単純に死傷者をして被害者とするのは、それこそ理屈が通らないのかも知れない。
コップ一杯の水の値段は同量もしくはもっと多くの血の量に値する事がある。
誰かにとっての賽銭程度の金額が、別の誰かの生死を分かつ事がある。
貨幣経済という大きな嘘。
印刷された紙に金属、データ上の数字にも具体的な価値は無い。
意味を持たせたのは、その行為により得する者でしかない。
かと言って、
その者が生物学的に他の個体であるヒトとさほど違っていた訳でもあるまい。
因果が必ず1セットであるとは限らない。
生命と自由を金で買うのは簡単(勿論、持つ者にとっては)だが、売るのは難しい。
材料費と存在し続ける事により消費される量は釣合うはずも無い。
原価だけならば、コイン数枚でおつりが来る。
ガチガチに固められた大嘘。
世界中で四六時中、十分の一、百分の一の数字のプラスマイナスに一喜一憂する側のためのグローバルスタンダード。
拒まれた者、振り落とされた者が帳尻合わせに使い捨てられる。
殺しながら祈るってのは無しだろう?
自分の手が汚れていないのは、
他の誰かに手を汚させているって事でしかないだろう?
始まりが嘘なら、それを鋳型として再生産される物が嘘でない物に成る筈も無い。
で、
その自己犠牲は本当?
誰かに何時の間にか刷り込まれた偽者じゃないの?
誰もが平和で豊かな世界?
在り得無いでしょう至福千年。
(もっとも「罪無き者のみ石を放て!」ってのだけは気に入ってるんだが、この連中の使う言葉の中では...それって誰も責める事ができないと言ってるのと同義だから...笑)

...私は嘘吐きだからね。
同類がやらかす事に対しては過敏なんだ。
こっちが旨い事、曖昧に逃げてるってのに、
似て非なる拙い嘘を誰かか破綻させ、そのとばっちりを受けるってのは頂けない。
もっとも風呂敷が大きくなればなるほど、その嘘を構築するパターンってのは限られてくるのは仕方が無いんだが...もう少し旨く騙せないものかねぇ。
同じネタでも見映えが違うんだがなぁ。

どうして倖をそんなに高く買いたがるんだろう?

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kaj

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