角を矯められた程度では牛どころか馬や鹿ですら死ぬことは無い(笑)
2008年3月23日
ヒトと類人猿の差分は古い謂いでは「毛三本」でDNA解析(これも、まだまだ不確定要素を内包しているが、まぁ是を書いても問題ない程度には周知だろう?)的にも一桁のパーセントを割るらしい。
が、
厳然たる別の種類の生き物として同時期に存在しているからには、何らかの意味・意図・意義があるのは間違いあるまい。
古き良き進化論的には環境への不適合さの度合いにより絶滅していている筈のものが並存している理由は何だと思う?
...いや多分、
この問いには答えは無いのが正しい。
リアルを否定できるのは妄想でしかない。
知る能わざるとカテゴライズできる事があるというのが実在を裏打ちする傍証でもあるのだから(笑)
非在により存在は確定される。
非AはAが在る事を肯定しない限り成立し得ない。
また、Aの是非は、区別できるという時点で一階層上のメタレベルを暗示するものに他ならない。
事実として、
角を矯められた程度の事で牛の生命活動が停止する事は無い。
(牛に角は付きものであるという思い込みは、廃れた文化の残滓に過ぎない)
にも拘らず、この謂いが「文化」を越えて引用され続けるのは、単にリアルな年長者の頑迷さへの警鐘であるのだが(若輩が年長者に使う用例は無い。万が一にもリアルな高齢者が若者に対して誤用するするならば、それは己の無知を周知する事に他ならない)
葉隠れも良いが、桐の葉の潔さを知るべきであろう。
(潔さこそ年長者の存在理由と考えるが、無意味に高度に発達した技術が、延命を実現し、後から来た者に、道を譲らぬとあれば、それは単なる老害でしかない)
誰もが抱えている癌細胞。
それが如何なる理由で発言するかは、経験則によってかなりの精度で見つけられる。
が、一度、一部の器官で発言した場合、それは全身に広がり、個体の死を促す。
同様にして、たった一つの己の思い込みに他者の自我を巻き込むというのならば、それは公開の場(私自身、ブログ文化やブログ人という特権階級的な謂いは無意味だと思っている。)ここまでツールとしてのブログが普遍化した以上、それを使用するモノは決して特別な存在ではない。例え、同世代において少数派であったとしても、同じ言語圏に生息する人口の一つと言う意味では、そんな程度の代物、電話をかける事が可能とかコピー機を使用できるとか、銀行のCDを使う事が出来るといった、誰でもできて当然の事。殊更に何事か秀でていると感じるのは結構だが、それは自身のレベルでしか物事を捉えられない悲しくも愚かしい行為である。
「背負うた子に教えられ」る事は当然なのだ。
それは、決して恥ずかしい事ではない。
年功序列と言う言葉には当然、定年ないしリタイアという概念が暗黙の了解として在るが故に意義がある。
それを見失った時、その一個人としての存在はリアルであろうが此方であろうが、多様な存在の可能性を認める事の無い癌細胞となるのは必定。
もちろん(現時点で不治の病の一つである)癌に侵されていると当人に告げる事は、必ずしも当人にとっても、また、その個人を愛する者にとっても、更に、それを告げざるを得ないもにとっても愉快なことではない。
が、老い先短いと自嘲する者に対して、それを告げる事は決して悪い事ではないと信じる。
それは、残りの時間を、せめても良いヒトで過ごそうというきっかけになるかもしれないと思うからだ。
(これも私の思い上がりだと言われてしまっては元も子もないのだが)
根源的な治療法の無い癌細胞の蔓延は、システムそのもの壊死を誘発する。
リアルに如何なる地位や名声を持つ個体であっても、他者を認めぬ者は、お気の毒だが(自覚症状が無いのならば特に)削除されるのが道理だろう?
ということで、
すこし残念ではあるが、私は現時点を持って自分自身が目にする事の出来る癌細胞を抹消する。
(こちらの中のDNというマイナーな世界においてのそれは、積極的に読まないという単純な方法で実現できる。つまりリンクを切ったり切られたりと言う行為。)
では、さようなら「せきやん」さんm(__)m
縁無き君の最後を看取る権利も義務ももたぬが故に私は私の意思で私から立ち去る。
此方での君にとっての良き理解者(頼まれれば「プチッ」を実施してくれるモノ達。君の思いに憐憫を感じる者もしくは私には到底持つことが叶わぬ共感を感じる者たちと「幸福な」余生を全うされんことを「祈る」)
が、
厳然たる別の種類の生き物として同時期に存在しているからには、何らかの意味・意図・意義があるのは間違いあるまい。
古き良き進化論的には環境への不適合さの度合いにより絶滅していている筈のものが並存している理由は何だと思う?
...いや多分、
この問いには答えは無いのが正しい。
リアルを否定できるのは妄想でしかない。
知る能わざるとカテゴライズできる事があるというのが実在を裏打ちする傍証でもあるのだから(笑)
非在により存在は確定される。
非AはAが在る事を肯定しない限り成立し得ない。
また、Aの是非は、区別できるという時点で一階層上のメタレベルを暗示するものに他ならない。
事実として、
角を矯められた程度の事で牛の生命活動が停止する事は無い。
(牛に角は付きものであるという思い込みは、廃れた文化の残滓に過ぎない)
にも拘らず、この謂いが「文化」を越えて引用され続けるのは、単にリアルな年長者の頑迷さへの警鐘であるのだが(若輩が年長者に使う用例は無い。万が一にもリアルな高齢者が若者に対して誤用するするならば、それは己の無知を周知する事に他ならない)
葉隠れも良いが、桐の葉の潔さを知るべきであろう。
(潔さこそ年長者の存在理由と考えるが、無意味に高度に発達した技術が、延命を実現し、後から来た者に、道を譲らぬとあれば、それは単なる老害でしかない)
誰もが抱えている癌細胞。
それが如何なる理由で発言するかは、経験則によってかなりの精度で見つけられる。
が、一度、一部の器官で発言した場合、それは全身に広がり、個体の死を促す。
同様にして、たった一つの己の思い込みに他者の自我を巻き込むというのならば、それは公開の場(私自身、ブログ文化やブログ人という特権階級的な謂いは無意味だと思っている。)ここまでツールとしてのブログが普遍化した以上、それを使用するモノは決して特別な存在ではない。例え、同世代において少数派であったとしても、同じ言語圏に生息する人口の一つと言う意味では、そんな程度の代物、電話をかける事が可能とかコピー機を使用できるとか、銀行のCDを使う事が出来るといった、誰でもできて当然の事。殊更に何事か秀でていると感じるのは結構だが、それは自身のレベルでしか物事を捉えられない悲しくも愚かしい行為である。
「背負うた子に教えられ」る事は当然なのだ。
それは、決して恥ずかしい事ではない。
年功序列と言う言葉には当然、定年ないしリタイアという概念が暗黙の了解として在るが故に意義がある。
それを見失った時、その一個人としての存在はリアルであろうが此方であろうが、多様な存在の可能性を認める事の無い癌細胞となるのは必定。
もちろん(現時点で不治の病の一つである)癌に侵されていると当人に告げる事は、必ずしも当人にとっても、また、その個人を愛する者にとっても、更に、それを告げざるを得ないもにとっても愉快なことではない。
が、老い先短いと自嘲する者に対して、それを告げる事は決して悪い事ではないと信じる。
それは、残りの時間を、せめても良いヒトで過ごそうというきっかけになるかもしれないと思うからだ。
(これも私の思い上がりだと言われてしまっては元も子もないのだが)
根源的な治療法の無い癌細胞の蔓延は、システムそのもの壊死を誘発する。
リアルに如何なる地位や名声を持つ個体であっても、他者を認めぬ者は、お気の毒だが(自覚症状が無いのならば特に)削除されるのが道理だろう?
ということで、
すこし残念ではあるが、私は現時点を持って自分自身が目にする事の出来る癌細胞を抹消する。
(こちらの中のDNというマイナーな世界においてのそれは、積極的に読まないという単純な方法で実現できる。つまりリンクを切ったり切られたりと言う行為。)
では、さようなら「せきやん」さんm(__)m
縁無き君の最後を看取る権利も義務ももたぬが故に私は私の意思で私から立ち去る。
此方での君にとっての良き理解者(頼まれれば「プチッ」を実施してくれるモノ達。君の思いに憐憫を感じる者もしくは私には到底持つことが叶わぬ共感を感じる者たちと「幸福な」余生を全うされんことを「祈る」)
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