不思議なもので地獄についてのディテールは古今東西関わらず、かなり具体的で判りやすい描写を目にするのだけれども逆の方(天国でも極楽でも)は曖昧極まりない。
コレも罪と罰に関してなら「目には目」を引っ張って来る迄も無く相応の関係性を幾らでも思いつくのだが、何かに対する相応の報酬となると、かなり難しい。
即物的な輪廻転生で来世が保障されるかと言うと自我が異なっているし記憶の連続性が実証されない限り意味が無い。
かといって、個別にか時期を決めて一括でかの違いはあるにせよ「裁き」を受けるものと考えても、その時点で自我は消失している訳で、これも意味が無い。
勿論、これは所謂「死後の世界」観を持てるか否かと言う一点に収斂する。
「地獄の様」で無いならば当然、その状況は地獄ではない。
また「地獄の様」でしかないならば、その状況は地獄そのものではない。
「生き地獄」という謂いもあるが、これは言葉自体が矛盾を内包している。
死んでいない者が死後の世界を見てきた事のように騙れる事自体に無理が有る。
もっとも、一目で其れが生きているか死んでいるかと言うことは判るように思えたとしても、時代風土習俗に拠って、その定義は未だに詳らかにされていない。(単なる利便性の問題としてならば「お話」は、また別。普通、放置すれば腐敗し見た目も頗る「悪く」なるので片付けてしまいたくなるのは当然。其処に幾許かの敬意が含まれるか否かは、出た所勝負)
コレより下はあるまいと思ってしまう事は単なる驕りだ。
其れを墓穴を掘らされていると捉えるか別の場所への血路を切り開いていると捉えるか状況に変わりは無くとも当事者にとっては大違いと言うこともできるのかもしれない、が、そもそも己の立ち位置という代物自体が既に怪しいのだから、これも殆ど実用的とは言い難い。
この世の中に有るもので他の何かに依存しないでいる事は、出来ないからだ。
まず、どうやって此処に現れた?それをどうやって維持している?
必ず何かを消費し、何かに消費される。
信じたいと願うことは出来ても、信じる事はできない。
この世の理の外側と言う概念を編み出した所で、結局、それは唯の「例外」でしかなく、この世の理で語る術は無い。
相対的なモノもしくは対概念(反対とか裏表とか鏡像といった「明確」な基準のある代物。二つ揃わなければ成立しないという一対一の関係ではない)としての「天国と地獄」とは、結果的に「程度」の問題となってしまう。
もちろん骸の頑健さの問題は個体差に譲るとしてもだ、感覚的なものというのは直線的ではない...例えば「快楽と苦痛」が身近かな?
同じ状態でどちらだと思えるか、これは円環を成しているとしか言いようが無い。
(つまり「過ぎたるは及ばざるが如し」と言う事)
こうしてしまうと、
如何にも「煉獄」という言葉がヒトには似つかわしいとしか思えなくなってくる。
どっちつかずでどっちとも言い切ることは出来ても証明は出来ない。
信じれば救われるのかもしれないが、それはコレに由来しない代物だ。
全く実用的でない。
だからコレは何時までも其処に居る。
コレも罪と罰に関してなら「目には目」を引っ張って来る迄も無く相応の関係性を幾らでも思いつくのだが、何かに対する相応の報酬となると、かなり難しい。
即物的な輪廻転生で来世が保障されるかと言うと自我が異なっているし記憶の連続性が実証されない限り意味が無い。
かといって、個別にか時期を決めて一括でかの違いはあるにせよ「裁き」を受けるものと考えても、その時点で自我は消失している訳で、これも意味が無い。
勿論、これは所謂「死後の世界」観を持てるか否かと言う一点に収斂する。
「地獄の様」で無いならば当然、その状況は地獄ではない。
また「地獄の様」でしかないならば、その状況は地獄そのものではない。
「生き地獄」という謂いもあるが、これは言葉自体が矛盾を内包している。
死んでいない者が死後の世界を見てきた事のように騙れる事自体に無理が有る。
もっとも、一目で其れが生きているか死んでいるかと言うことは判るように思えたとしても、時代風土習俗に拠って、その定義は未だに詳らかにされていない。(単なる利便性の問題としてならば「お話」は、また別。普通、放置すれば腐敗し見た目も頗る「悪く」なるので片付けてしまいたくなるのは当然。其処に幾許かの敬意が含まれるか否かは、出た所勝負)
コレより下はあるまいと思ってしまう事は単なる驕りだ。
其れを墓穴を掘らされていると捉えるか別の場所への血路を切り開いていると捉えるか状況に変わりは無くとも当事者にとっては大違いと言うこともできるのかもしれない、が、そもそも己の立ち位置という代物自体が既に怪しいのだから、これも殆ど実用的とは言い難い。
この世の中に有るもので他の何かに依存しないでいる事は、出来ないからだ。
まず、どうやって此処に現れた?それをどうやって維持している?
必ず何かを消費し、何かに消費される。
信じたいと願うことは出来ても、信じる事はできない。
この世の理の外側と言う概念を編み出した所で、結局、それは唯の「例外」でしかなく、この世の理で語る術は無い。
相対的なモノもしくは対概念(反対とか裏表とか鏡像といった「明確」な基準のある代物。二つ揃わなければ成立しないという一対一の関係ではない)としての「天国と地獄」とは、結果的に「程度」の問題となってしまう。
もちろん骸の頑健さの問題は個体差に譲るとしてもだ、感覚的なものというのは直線的ではない...例えば「快楽と苦痛」が身近かな?
同じ状態でどちらだと思えるか、これは円環を成しているとしか言いようが無い。
(つまり「過ぎたるは及ばざるが如し」と言う事)
こうしてしまうと、
如何にも「煉獄」という言葉がヒトには似つかわしいとしか思えなくなってくる。
どっちつかずでどっちとも言い切ることは出来ても証明は出来ない。
信じれば救われるのかもしれないが、それはコレに由来しない代物だ。
全く実用的でない。
だからコレは何時までも其処に居る。
コメント
これの元ネタはチンチロリンって博打なんだけども(^_^;)
でもって当然の事ながらネタ書きの宛て書き。
なんだけども...こういうハリボテの様な破綻した駄々書きは勢いが肝。
とは言え、
見え見えだからなぁ...突っ込み所が多すぎたか(笑)