信じる心が強くする...そりゃもう、性質が悪い事には誰の手に負えない程までに、全く(笑)
「もう何もかもが信じられない」と言いたくなる様な状況と情動は、理解できると思う。
更に「何もかも」の部分を「誰」か特定の個人に置き換えたり、
「信じる」の部分を「愛する」とか「赦す」とか置き換えたり、しても同様、
その状況に一人称以上の当事者として関与する事になった場合、
コレは気の迷いと捌く。
といのも、この「痛み」を伴っている様な錯覚すら感じさせる台詞、
残念ながら、
自己言及のパラドックスのバリエーションでしか無いからだ。
効果範囲が限定されていない場合、自動的に発言をしてしまった自我がを対象に含むことが日本語の文法(命令形以外でも一人称の省略が許される言語と言うのは、かなり珍しい代物だと思うのだが、其れを否定しても実際には「在る」のだから何とも不思議で遣りきれないと思わないでも無いが、これは置いておく)だ。
つまり、
一人称をも「信じる」事ができないならば、
当然、
その一人称の発する台詞も信用に値しない事に成る。
そう
冒頭の「もう何もかもが信じられない」という台詞そのものも信じるに値しないと言うツマラナイ現象が発生してしまうのだ。
この状況を解呪するには、
「お前を信じるな(信じなくても良い)俺を信じろ、お前を信じる俺を信じろ」
心の弱っている際の強い言葉は、思考停止を促し、二人称により赦免状をうけたと勘違いさせる。
ここで用いられる一人称の「俺」は、実際の処は「オレオレ」詐欺の俺と何も変わらないものであるにも関わらずにだ。

藁を掴んだ位で「救われる」などと言うのは言葉遊びでしか無い。

言葉で腹が膨れるほどヒトは便利にできてはいない。

捕食者(であると思っている同属のヒト)は、別の何所かで掠めてきた一個のパンと一杯のワインで、その場しのぎの安息を与え「絵に描いたディナー」を見せつける事で、食材となるヒトを適宜に肥え太らせた後、収穫する。

...フェアトレードと呼ばれるものと変わりは無い。
誰が何に対して価値を見出すか?
高く売りつけられても買う事が出来る者は、買わされる事でささやかな自己犠牲と満足を得る。

構造は同じ。

だから、夢や明日を信じる者が騙されたと憤るのは筋違いだと思うし、手遅れだとも思う。

救われるモノは決して他の誰かの手を借りる事など無い。
初めから救われているかそうでないかは、己が決める事などでは無い。

厭味な程、平等だと思うよコレは。

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kaj

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